

はじめに
小泉内閣の誕生から二カ月余、驚異的な支持率は国会中継の視聴率を一変させ、電子メールの殺到には、与野党問わず敏感な対応を強いられ、そのことがまた、さらなる政治への関心を呼んで内閣支持率を下支えするという、スパイラル構造ができあがっている。私は二年前に『首相民選』を世に問うて、国会の首相指名選挙にあたっては、国民投票を実施してその結果を尊重することを主張してきた。たまたま今回の自由民主党総裁選挙には、私のイメージと重なるものが多々あるので、以下、総裁選の経過を念頭に、私の提唱する『首相民選』と公選の対比をご理解いただき、あわせて公選制が前提とする憲法の改正についても、政治の場に身をおく者として率直に一言、申し述べることと致したい。


二自由民主党総裁選挙
このたびの自民党総裁選挙、そして小泉内閣誕生から今日までの経過について、世間では予想外の展開と評する向きが少なくない。当初、小泉現総理は出馬されるのかどうか、出馬されても敗退必至と誰もが考えており、国会議員の票固め、有権者の支持拡大を目指すよりも全国規模の街頭演説、それも国民的人気の高い田中眞紀子氏を伴って熱っぽく訴えかけるという奇手妙手も、弱者のゲリラ戦法と冷ややかに見られていたのが、いまとなっては嘘のようである。それがいつの頃からか、津波のような小泉人気が沸き起こって形勢一気に逆転、党員選挙はマスコミの予想を越えた文字通りの完勝であった。党大会では皆一様に党員選挙の結果に敬意を表して、積極的にこれを尊重する結果となり、党員投票とのいわゆるねじれ現象、決選投票に向けての合従連衡などは、まったくの杷憂に終わってしまった。
しかし『首相民選』の立場から事実経過を遡って見ていくと、遠大な戦略と繊密な戦術が浮びあがってくる。総理就任を見越した上で、政策体系の独自性を示して他候補との差別化をはかる一方、自己アピールに徹して国民との一体感を醸成していく。支持が国民全体に拡がれば、有権者の投票行動は大きく左右され、党員投票で優位に立てば、党大会への影響力も決して小さくはないと読みきっての実に忍耐強い戦術である。国民の意思を直接に国政に反映し、内政・外交に強いリーダーシップを発揮できる内閣の樹立を掲げて、首相公選とそのために必要な憲法の改正を主張されてはいたが、実際に行われたことは、党員による投票を国民投票に、党大会での総裁選出を国会の総理指名選挙に符合させて考えれば、『ミニ民選』以外の何ものでもなく、今回私は大いに意を強くしたところである。小泉総理は、選出までのプロセスも総理としてのあり方も、私の言う『民選』首相そのものだからである。


三 首相民選
憲法を改正して、一気に首相を直接選挙により公選しようという考え方がこれまで主張されたことがある。いわゆる首相公選制である。そもそも議院内閣制の長所は、たえず国会に体現される民意を内閣に反映できる点にある。しかるに、多数派形成が舞台裏の駆け引きに委ねられてしまって、この長所が失われる危険を常に持っていることは、この制度の宿命といってもよいであろう。
多くの国民がこのような国会への失望から、直接選挙による首相の強いリーダーシップに期待し、そのための憲法改正を当然と考えても、何ら異とするには当たらない。しかし、それで国会への失望は癒されるのであろうか。首相が強いリーダーシップを発揮できるような状況が、はたして実現するのであろうか。
私の提唱する『首相民選』はこれとは異なる。これまでの首相公選制は事実上大統領制に近いものとなる。しかし、私の提唱する『首相民選』は、首相選択に関する国会の意思決定のプロセスに、国民の判断を取り入れることによって、議院内閣制の強化を目指すものであって、憲法の改正を前提とするものではない。直接的に民意に裏打ちされ、明確な政策体系と実行力を持った内閣が、国会の信任という大きな土俵の上にあることを前提に、民意の実現を国会と競うのであるから、国会もまた強化されることとなる。
国民に選ばれていながら国民から遠く、仲間うちの怨念に揺り動かされ、政策の提示よりはスキャンダルの頻出とその暴露で疲れ果て、内政も外交も官僚の敷いたレールの上を行くことに甘んじてきた。そのような政治のあり方こそが問題なのであって、制度のせいにするのは問題の本質を見誤るとの批判がある。しかし、制度を改良することによって政治がよりよいものになるのであれば、果敢に改良を試みるのが政治家の責務である。制度は人間の考え方をも変えるものである。
具体的には、衆議院議員選挙後に召集される特別国会の首相指名に際して、あらかじめ首相民選のための国民投票を実施して、国会はその結果を尊重するものとし、首相候補者は国会議員を有資格者とし、かつ国会議員の総数の五分の一以上の推薦を要件とする。実際には、かなり早い段階から首相候補のしぼり込み、提携の模索が、国民の反応を意識しつつ進められるはずである。国民投票に向けたこのような動きは、首相候補の政策体系を鮮明に浸透させ、派閥割拠の傾向など病的な部分をも国民の前にさらけ出すことになる。
このように「首相民選」は、政治を国民の目に見えるものとし、国民みずから政策を選択する機会が与えられることによって、民意の反映方法として万能とはいえない代議制、議院内閣制の欠点を補って余りあるものといえよう。


四 憲法改正の可能性
公選論が話題になると必ず、憲法の改正も不可能ではない、首相公選のための必要に限れば野党も賛成するから三分の二の壁も破れる、この問題を突破口にすれば九条改正に道が開ける、等々の議論が勢いを得てくる。しかし私は、与党が過半数をとるだけでもこれほど苦労している経緯と、背景となった政治の混乱、「失われた一〇年」といわれるその間の動きを渦中で見てきた者として、憲法の改正が近い将来可能になるとはとても思えない。
したがって憲法改正を前提として首相公選を実現するのは、百年河清を侯つということになりかねないと思う。また改正の手続きも九六条の規定は総論のみで、具体的なことは何も明らかでないことも、いざとなったら難しい問題になるのではないか。


五 今後の議論のために
私の提唱している「首相民選は、中曾根元総理の公選論を参考に、国会議員としての日々の省察を積み重ねたもので、その意味で公選論に負うところは甚だ大きく、今回も再読三読、改めて深い感銘を覚えた。特に感服するのは、四〇年前、左右の対立が激しかった政治状況の中で、首相公選制となれば革新派政権の誕生を早めることになる、との保守内部からの批判に対して、敢然と「もし自民党が主権者である国民の批判を受けて公選で敗北するなら、その自民党は国民の信用を回復するために顔を洗って出直さなければならないのである」とまで言い切った保守政治家としての衿持と度量である。
また普通選挙が実施された大正一四年から昭和三〇年代後半への社会条件の進歩をあげて、政治のあり方も科学技術の水準に適合したものでなければならないと説かれた、歴史を見る眼の確かさ、見識の鋭さも特筆大書しなければならない。首相公選論の歴史的意義は今後も永く伝えられるものと信ずる所以である。
折りしも公選論からさらに四〇年、東西冷戦の終結さえ過去のものとなった今日、技術の進歩はついに、即時かつ双方向の情報通信を日常化してしまった。われわれは=○世紀には想像もしなかったリーダーの新しい選び方を目の当たりにした以上、もはやこれまでの首相公選論への批判も反批判も一度ご破算にするくらいの覚悟がないと、将来にわたって有効な議論には進めないのではないかと思う。
ともあれ『首相民選』は、公選論とも一脈相通じるものがある。どちらも国会のあり方に対する不満から発想されたものだからである。政治に対する国民の期待や願望を忘れがちな国会における諸勢力の政争のために、首相の地位にある者が明確な政策を実行できない状態が永く続いてきた。官僚の過度の政治介入も、大きな視点にたった政治ができない状況の中で生み出されたわが国特有の病的現象の一つといえよう。
この状態を変えなければならないと考える者が、統治機構のあり方を真剣に模索する時、必ず私の提唱する制度に行き着くだろう。問題意識の源は同じであるから、異なる制度を主張する人々にも必ず同意していただけるものと信ずる。
(いま、「首相公選」を考える、弘文堂編集部刊。168P〜175P)